として、啓発活動に励まなければと思っています。高校2年の秋季近畿地区大会で活躍したあと、冬に体調を崩されました。岩田 当時の僕は、一応エースという立場にあり、高校卒業後はある大企業の社会人野球チームに入る予定をしていました。そんなときに病気になってしまったのです。硬式野球部の監督であり担任でもあった西谷浩一先生は、誰よりも僕を心配してくれた、最高の恩師です。病名がわかり入院生活に入ったその日から、西谷先生の毎日の夜の見舞いが始まったのです。主治医からは「ちゃんと注射を打てば野球は続けられる」と言われてはいたものの、「注射は打たなければならない?」「どうなるんやろう」、そんな強烈な不安が押し寄せてくる日々が続いている中での、西谷先生の来訪。ユニフォーム姿のまま、21時を過ぎた暗がりの廊下を、のっしのっしとやってくるんです。多分、病院側に面会時間を過ぎてからでも入らせてもらえるように頼み込んでいたのでしょうね。1日目はボールとグラブ持参でした。「握っておけよ、感覚を忘れたらあかんぞ」と言って、のっしのっしと帰っていく。2日目は握力を鍛えるためのハンドグリップ。3日目はチューブで4日目はダンベル。病室がトレーニング部屋に早変わりした感じでした。トレーニング以外にも、西谷先生は1型糖尿病の勉強会に参加したり、主治医の竹川先生から血糖コントロールの情報を仕入れたりと、親身になって寄り添ってくださったとか……。岩田 そうなんです。もう、西谷先生には頭が上がりません。前述しましたが、僕は家庭の事情もあって、社会人野球チームに入る予定でした。ところが、1型糖尿病発症が原因で、社会人チームへの進路内定が取り消されてしまったのです。「ちゃんと野球ができているのに、自分の人生どうなるんやろう」受け止めることができずに、自暴自棄にもなり、かなり落ち込みました。、当時は理不尽な現実をそんなとき、静かに諭してくださった ―― ―――5だろ」のも西谷先生だったのですね。岩田 「岩田、重たい病気を抱えている選手を雇うのは、そんなに簡単なことじゃないんや。逆の立場に立って考えたらわかるこの言葉を聞いて、かなり冷静になれたんです。そして西谷先生は、自分の母校である関西大学への指定校推薦のために、あちこちに頭を下げてくださって……。阪神タイガースに入団できたのも、西谷先生に何から何まで面倒を見ていただいたからで、大恩人です。 16年のプロ生活に終止符を打つ1型糖尿病と共に生きながら、プロ野球選手として16年間戦い続けた岩田さん。いろいろな葛藤のあるなか、2021年にユニフォームを脱ぐことになりました。岩田 プロのスポーツ選手なら、ほとんどの人が「引退」の2文字は考えたくないものだと思います。いつまでも大きな声援を受け、脚光を浴びながら、最高のパフォーマンスを披露したい、披露し続けたいはずです。でも、2文字は容赦なく近づいてくるんです。僕の場合は、引き際を意識し始めたのは、引退の5、6年前、2016年シーズンだったと思います。一軍でマウンドに上がれたのは6試合だけで0勝。そのままオ1型糖尿病発症で 社会人野球への進路が断たれる2021年10月①高校2年の秋季近畿地区大会で力投。この直後の冬に1型糖尿病を発症した ②関西大学時代。反骨心を力に変えて体をいじめ抜いた(2005年2月、大学3年時) ③2020年10月1日の中日戦。454日ぶりに白星を飾りお立ち台へ Ⓒ阪神タイガース■ LABO – 2023.03●③●②●①
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