Labo_533
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なった。私は4年前、職場の出向制度され、再検査を受けることになっ摘を受けていたが、当時は、特に査を勧められた。血液検査だけで行い、ようやく、原因が判明し「10万人に2人の病気です」は、新たな人生を歩むきっかけとで、生まれ育った鹿児島を離れ、1人大阪の地で、仕事をしていた。その出向先で受けた健康診断で、血小板の値が高いことを指摘た。出向する前の年にも、同じ指問題なしとの医師の診察に、気にも留めていなかった。しかしこの時、大阪の医師からは、血液内科の専門だったこともあり、精密検は原因がわからず、骨髄検査までた。診断結果は、「本態性血小板血だった。血小板が増えることで、すくなる。遺伝子変異のため、完治することはなく、加齢とともに抗がん剤での治療も必要になってくる。そこまで高くはなかったことと、になった。かった。当時、29歳。病気とは無縁と思っていただけに、がんというフレーズや、完治しないこと症」。造血管細胞の一部の遺伝子が変異しており、通常より多くの血小板を作ってしまうという病気血液が固まりやすくなり、脳梗塞や心筋梗塞等の血栓症を誘発しや血栓症のリスクが高まる傾向にある。そして、悪化するようなら、年齢が若いことから、薬の服用と定期的な通院で、様子を見ることに、目の前が真っ暗になった。中、私の支えになったのは、両親や職場の仲間たちだった。特に母は、病気の原因が、遺伝子変異とた。その姿を見て、こんなにも自の大切さを実感した。その当時はよ」と伝えるのが精一杯だったが、この世に産んでくれただけで、十分。いつの日か、この感謝の気持ちを伝えたいと思った。しの言葉をかけてもらったり、気きていることを実感した。今となっては、精密検査を受けたあの日が、人生の転換期となっりの人生、後悔しない道を進みたいと意識が変わった。そして今まだ33歳、その気になれば何だってできる。これから私が歩む人生そのもの。塞ぎ込んだ記憶も、励ましの言葉かりと踏みしめていく。令和4年度第23回一般公募エッセイ鶴屋健太(33歳/熊本県)「検査がくれたもの」入賞作品紹介努力賞幸い、私の状態は、血小板値がそれでもショックは隠しきれなそんな不安でいっぱいの状況のいうことで、健康に産めなかったことを悔やみ、自らを責めてい分の身体のことを心配してくれるのかと、この年になって初めて親恥ずかしくて、「この病気は遺伝したわけじゃないから大丈夫だ人は決して1人で生きているわけではない。言葉ではわかっているつもりだったが、この病気をきっかけに、周囲の方々に、励ま分転換に飲みに誘ってもらったり、改めて多くの支えの中で、生た。周囲の温かい支えのお陰で、無事に出向を終えた私は、一度き春、11年勤務した職場に別れを告げ、新たな仕事に転職した。まだ「検査がくれたもの」、それは、も、この病気も、すべてを糧にして、これからの新しい人生をしっ病気を糧にして生きていく20代最後の年に告げられた衝撃11■ LABO – 2023.06

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