Labo_533
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正々堂々、らず知らずのうちに育まれていくものです。それが実技に偏重した場合の最大の弊害ではないでしょうか。手段を選ばずという勝ち方に慣れてしまうことほど悲しい現実はありません。そういう柔道は残心もなく、後味も悪い。だからこそ、実践と同時に「理」という根底を常に〝合わせ技〟で学ぶ必要があると思います。「技あり」だけでは「一本」に満たないということです。もともと人々の闘争手段だった格闘術が、〝道〟という名の付く柔の道、すなわち柔道にまで昇華されたのは、「理」という原理・原則が内包されてきたからこそ。したがって、その「理」を疎かにしては、そもそもとして柔道ではなくなってしまうというわけです。でも、人には喜怒哀楽という感情があ――6は、相手にみずからの未熟さを教えてもるので、負けるのはやっぱり悔しいものですね(笑)。敗北の「北」には〝逃げる〟という意があるので、よけいに辛い気持ちになりそうです。山口 試合になると、どうしても勝ち負けという判定に委ねられますが、例えば勝ちを「成功」、負けを「失敗」という概念に置き換えてみてはいかがでしょうか? 失敗は誰にでもあるもので、まず失敗を恐れないこと。失敗はチャレンジするからこそ生まれるもので、なぜ失敗したかという要因を検証し、反省することによって、また新たな目的に向かって突き進む原動力にもなるのです。柔道でいうところの失敗とらったということ。負けた瞬間はもちろん悔しさでいっぱいでも、「理」を学んでいれば、時間が経つとむしろ相手に感謝するようになるものです。一方で、人間というのは、みずからの弱さをなかなか認めたくない生き物でもあります。言い換えれば、強情な面が多分にある。負け惜しみを言いたがるのもその表れの一つでしょう。ところが、幸いにして私の場合には、〝ピラニア〟という唯一無二の存在であったがゆえに、むしろ自身の弱さを素直に認め、首を垂れるしかなかったという自覚も培われたのだと思います。私が大学に進学し柔道部に入部したときも、やはり女性は一人でした。ただ、小学生時代と明らかに異なるのは男女のパワーの差。これはもう歴然とした差としか言いようがなく、部の中で一番弱いどころか、そこからさらに水をあけられて、はるか後方にポツンと取り残されているような存在でした。だから、世間で〝女姿三四郎〟などともてはやされても、天狗になっている余裕などはありませんでした(笑)。組み合っても何もさせてもらえないもどかしさに対して、何とかしたいという気持ち……。これが私のモチベーションになっていたといっても過言ではありません。そういった環境の中で切磋琢磨された ﹁可愛い子にはスポーツをさせよ﹂ という社会にものであり、勝負に対する執念であるという意見もありそうです。山口 もちろん、最後まで勝負を諦めないという気持ちは大事。実際、私自身も生来の負けず嫌いですから、やはり試合に出れば負けたくない(笑)。ただ、負けないための方法、いわゆる勝ち方にもいろいろな方法があって、同じ勝つなら正々堂々と戦って勝ちたいとは思いませんか?いわゆるフェアプレーとは、ひきょうな手段を使わず、勝っても負けても立派だったという態度で相手に向き合うことです。ところが、あまりに勝ち負けに拘泥してしまうと、本来中心にあるべき正々堂々を脇に置いて、手段を選ばずという観念が知筑波大学時代。ここでも水槽の中の一匹のピラニアだった。「男女のパワーの差を痛感しました」ウィーンで行われた第3回世界柔道選手権で日本人女子として初めて金メダル獲得(1984年)2023.06 – LABO ■

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