知恵を絞り情熱のある指導者を目指し大学卒業後に勝負をかける――地元の中学、高校でバスケットボールに励み、大学は愛知県の中京大学に進まれました。目標は選手として全国レベルで活躍されることだったのでしょうね。安里 私は、やんばるの中学、高校の出身ですが、当時はバスケットの指導者がいなくて、試合に勝つなんてとても無理でした。後輩たちには、こんな悔しい思いをしてほしくないという考えがどんどん膨らんで……。指導者になろう、そのために多くを学ぼうと心に決めて、愛知県の中京大学に進学しました。全国から優秀な選手が集まってくる中、高校時の成績が、県大会1、2回戦止まりで、もともと“指導者になるために”を優先していましたから、選手としてのレベルは三軍でした(笑)。でも、私の目標は指導者になることで、「卒業してからが勝負!」といつも思って、指導者としての目を養う努力は怠りませんでした。――卒業する年に、日本一の高校の練習を、夜行列車に乗って見学にいらしたとか。卒業する年の2月に、高校日本一の安里 成績を収めていた秋田県の能代工業まで、アポなしで行きました。どんな練習をしているのか確かめたかったのです。ゾーンプレスの指導法とかガードの育成法を直接学べるかと期待して、体育館の扉を開けたのですが……。ところが、体育館の中にあった光景は、 4必死に技術練習をしている選手たちの姿ではなく、やる気に満ち溢れたイキイキしている姿でした。とにかくびっくりしました。指導者として最初にやるべきことは、技術を教え込むことではなく、やる気のある集団をつくることだと気づかされたのです。技術的なことを学ぼうとしていた自分が恥ずかしくなりました。そこで出会った加藤廣志先生のチームづくり、指導法に衝撃を受けて、改めて目標が定まり指導者としてのスタートを切りました。この能代工業の体育館が、私の指導者としての原点なのです。――大学卒業後、地元に戻られ、後輩た大ヒットのアニメ映画『THEFIRSTSLAMDUNK』の原作漫画に登場する陵南高校・田岡茂一監督のモデルとなったといわれている安里幸男さん。沖縄の本土復帰間もない1970年代、沖縄バスケへの注目度がまだまだ低い中、1978年の全国高校総体(山形)で、母校・辺土名高校を全国3位に導き、全国にその名を轟かせました。勝つための知恵を絞り、情熱あふれる指導をする――、今も変わることのない、色褪せることのない「安里ワールド」へ皆さまをお連れします。中学、高校、大学ではプレーヤー卒業後を勝負のときと定める「参加することに意義がある」では面白くない!指導法などを書きためたノート。戦評なども書き残されている自宅2階の一室を改装し、指導者生活の記録を展示した「安里バスケットボール・ミュージアム」。そこに飾られている横断幕「打倒能代工」の掛け軸。笑われるくらいの目標を掲げ、打倒に成功した2023.08 – LABO■コート上で熱い思いを前面に出して選手を鼓舞します!
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