Labo_540
16/22

白亜総塗り込めの壁面で別名は「白鷺城」一度は訪ねたい日本の城今日残存する明治維新前に築かれた城郭のうち最もよく建築物が残るのは、姫路城である。姫路城は内城・中城・惣構からなるが、旧観通り残るのは内城のみである。その内城も、天守・櫓・門・堀が残るが、殿舎・蔵・番所などが失われている。中城域の三の丸は石垣・濠は残るが、建物はない。姫路城のほか、彦根城、松本城、松江城、弘前城、高知城、宇和島城、丸亀城、犬山城、丸岡城などにも天守建築は残るが、櫓群など明治以前の近世城郭の景観を、そのまま今日目にできるのは、姫路城のみである。しかし、姫路城の残存建築遺構は内城域の丘城部分の塁線上の建築群だけである。居館が営まれた本丸殿舎や三の丸の建築群及び櫓群、門、塀などは失われている。残存する天守建築は大天守と三基の小天守、これらを結ぶ多聞櫓、籠城戦に備えての台所櫓、番所からなる。大天守は5層7階で2層の大入母屋上に3層が乗る外観で、石垣内に地下階がある。今日、国宝で日本の城では唯一世界遺産に登録されている。姫路城の創築は室町時代に赤松氏によったが、今の規模になるのは戦国時代の羽柴氏を経て、慶長6年(1601)池田輝政が入城してからだ。城の改築、拡張はその後もなされ、西の丸が築かれたのは、元和4年(1618)本多忠政が入城、拡張したことによる。別名を「白鷺城」と呼ぶように白亜総塗り込めの壁面で、屋根瓦の繋ぎ目も白漆喰であるから、城全体が白く輝いている。なお、城は姫山と鷺山の2つの丘から成り、鷺山は本多忠刻に千姫が嫁した折に増築した化粧櫓と多聞櫓が連なる長局と呼ばれる櫓群が建てられ現存する。内城の入口に建つ菱の門は、池田輝政が改築の際に伏見城から移築したものと伝えられている。白鷺城と呼ばれる。屋根瓦の繋ぎ目も白漆喰であるから、城全体が白く輝いている162024.01 – LABO ■日本城郭史学会代表、日本城郭資料館館長、日本考古学協会会員。1947年生まれ。専修大学法学部卒。東京大学文学部大学院国史研究生。立正大学文学部講師などを歴任。東京都、福島県、茨城県、兵庫県などの発掘調査団長、担当者を務める。『戦国の城』全4巻(学研)、『復原図譜日本の城』『城郭古写真資料集成』(理工学社)、『江戸城』(東京堂出版)、『日本の城郭を歩く』全2巻『日本の名城』全2巻(JTB)、『城郭』(東京堂出版)、『鳥瞰イラストでよみがえる日本の名城』(世界文化社)、『一度は訪ねたい日本の城』(朝日新聞出版)、『城郭百科』(丸善出版)など著書多数。(にしがや・やすひろ) 城とは、「土から成る」構築物をいう。天守や櫓、門など建築遺構がなく、堀・土塁・石垣など土木遺構があれば、城そのものが残っているわけだ。日本には有史以来、およそ3万余の城が築かれた。城が戦闘拠点に用いられる恐れから、江戸幕府は「一国一城令」を発して、1万石以上の大名領国に一城の居城を残し、廃城にした。戦国時代末までに数千、数万余築かれた城は、明治維新時におよそ260余ヵ所が残存した。城と呼ばない陣屋は、101家の無城主大名居所などがある。今回12回にわたり、各地に残る代表的な城を紹介する。令和医新DATA別称 白鷺城築城年 1580年称号 特別史跡、国宝、世界文化遺産住所 兵庫県姫路市本町68西ヶ谷恭弘姫路城 世界文化遺産の称号をもつ第1回

元のページ  ../index.html#16

このブックを見る