Labo_541
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ルーツは太田道灌が築いた城徳川3代将軍によって大城郭となる一度は訪ねたい日本の城たはねばし近世日本を江戸時代と呼ぶように、17世紀初頭から19世紀中葉後半まで、江戸城内には日本を支配した徳川政権が置かれた。政治機構の中核は本丸御殿舎、火災で本丸が失われた折には、再築なるまで西の丸および二の丸の殿舎が用いられた。江戸城が幕府の所在地となった慶長8年(1603)から明治維新(1868)まで265年間、城は日本の政権の場であり続けた。江戸城の名を一躍世に知らしめたのは、太田道灌が扇つ谷上杉氏家宰として、本丸台地に居館を構え、当時騒乱が吹き荒れた長尾景春の乱を鎮めたことによる。その後、城は後北条氏により、大改修され東武蔵の中心となった。天正18年(1590)、後北条氏に代わり関東の支配を行うことになった徳川家康は、江戸城を関八州の府城として大改修に着手。3代家光の代に、今の皇居を中心とする千代田区域を城域とする城が一応の完成をみた。本丸には5層天守が3度上がった(天守は建てるとはいわず、あげるという)。3層櫓などが並び建っていたが、明暦の大火(1657年)で天守以下が失われ、以後幕府の財政難から天守などは再築されることがなく、明治維新に至った。周知のとおり、明治以降は皇室管轄となり、今に及ぶ。現在、城の中枢部の本丸・二の丸・三の丸は皇居東御苑として公開され、西の丸は皇居、吹上は皇居付属庭園として管理されている。櫓・門などは明治以降、大部分は撤去されたが、本丸台地には富士見櫓・同多聞櫓、西の丸に伏見櫓、西大手門などが現存。大名小路曲輪は皇居前広場として公開されている。二の丸庭園など四季の移ろいが楽しめる。また、石垣が築かれた年代によって異なる石積み手法と助役された大名家の刻印、さまざまな石材地の石質の相違による石垣がみられる。本丸北の北き桔橋門の高石垣は江戸城で最も高い石垣である。おうぎがや(にしがや・やすひろ)八方正面の櫓と呼ぶ富士見櫓10日本城郭史学会代表、日本城郭資料館館長、日本考古学協会会員。1947年生まれ。専修大学法学部卒。東京大学文学部大学院国史研究生。立正大学文学部講師などを歴任。東京都、福島県、茨城県、兵庫県などの発掘調査団長、担当者を務める。『戦国の城』全4巻(学研)、『復原図譜日本の城』『城郭古写真資料集成』(理工学社)、『江戸城』(東京堂出版)、『日本の城郭を歩く』全2巻『日本の名城』全2巻(JTB)、『城郭』(東京堂出版)、『鳥瞰イラストでよみがえる日本の名城』(世界文化社)、『一度は訪ねたい日本の城』(朝日新聞出版)、『城郭百科』(丸善出版)など著書多数。2024.02 – LABO ■江戸城三の丸桔梗門と隅櫓西ヶ谷恭弘第2回令和医新DATA別称 千代田城築城年 1637年文化財史跡区分 国指定特別史跡住所 東京都千代田区千代田江戸城 ■■■■■■■

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