Labo_542
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天 高守・知本城丸御殿・櫓群が唯一完存する城天 伊守曲予輪松建山築城群がそのまま残存する高知城は、長宗我部元親に代わり土佐国を領した山内一豊により、慶長6年(1601)から築かれた。本丸は天守、殿舎、櫓門、多聞櫓、塀の建築群が築かれ、本丸が廃城前の全盛期の姿でそのまま残る日本で唯一の城である。高さ18・5mの三層六階(四層六階ともいう)の天守は、白亜総漆喰塗り込めで、最上階に望楼が設けられている。二層の大入母屋に望楼の二層がのる型で、大入母屋とめ廻ぐり縁えん望楼が景観の特徴だ。古式の形状といわれるが、延享4年(1747)の再築で創築時の姿を再現した外容と伝える。城の麓から天守大棟までは63m、中層に大入母屋、その上の唐破風と黒漆の望楼と扉が、天守全体の印象を引き締め、優雅な姿を見せている。1階には石垣と接する二面に忍び返しの鉄串と大きな石落としがあり、優雅な佇まいの中に城郭建築ならではの厳しさが感じられる。慶長7年(1602)加藤嘉明が築城。勝山とその麓に築かれた平山城で、姫路・和歌山城と共に三大平山城に数えられる。蒲生氏時代に大天守は五層六階造りで完成したが、のちに三層天守に改めるが、天明4年(1784)に落雷で焼失。現在の三層大天守は幕末に再築されたもの。五層造りの天守台に三層大天守をあげたので、ずんぐりした形状となった。松山山上の本丸、山腹の二の丸、麓の三の丸、東と北の曲輪からなる。完成した城には大天守のほか小天守・南櫓・多聞櫓・北櫓などの天守曲輪と25基を数える櫓群が並んでいた。現在は大天守のほか隠門続櫓、本丸南曲輪の戸無門、石垣などが現存する。二の丸殿舎下から出土した大井戸、二の丸から本丸へ斜面を立ち上がる「登り石垣」などが見どころである。一度は訪ねたい日本の城      (にしがや・やすひろ)日本城郭史学会代表、日本城郭資料館館長、日本考古学協会会員。1947年生まれ。専修大学法学部卒。東京大学文学部大学院国史研究生。立正大学文学部講師などを歴任。東京都、福島県、茨城県、兵庫県などの発掘調査団長、担当者を務める。『戦国の城』全4巻(学研)、『復原図譜日本の城』『城郭古写真資料集成』(理工学社)、『江戸城』(東京堂出版)、『日本の城郭を歩く』全2巻『日本の名城』全2巻(JTB)、『城郭』(東京堂出版)、『鳥瞰イラストでよみがえる日本の名城』(世界文化社)、『一度は訪ねたい日本の城』(朝日新聞出版)、『城郭百科』(丸善出版)など著書多数。2024.03 – LABO ■10伊予松山城。本丸よりみた本檀の大天守、小天守、櫓群。右は馬具櫓高知城。本丸下より天守、本丸、本丸腰曲輪をみる令和医新高知城 伊予松山城西ヶ谷恭弘DATA別称 鷹城築城年 1601年文化財史跡区分 国指定史跡住所 高知県高知市丸の内1-2-1DATA別称 金亀城、勝山城築城年 1602年文化財史跡区分 国指定史跡住所 愛媛県松山市丸之内1第3回

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