ゆっくりと話す語り口や柔和な表情から、バラエティ番組などで人気の渡部陽一さん。戦場カメラマンとして、30年にわたって世界の紛争地を取材し続けています。ルワンダ内戦、チェチェン紛争、コロンビア内戦、パレスティナ紛争、イラク戦争、ウクライナ戦争・ロシア軍事侵攻……、訪れたのは約130の国と地域にのぼります。なぜ戦場カメラマンになったのか。今も紛争地に足を運ぶ原動力はどこにあるのか。これまでの活動を振り返りながら、語っていただきました。血だらけで泣く子どもたちを前に何もできなかったことが原点――渡部さんは大学生のころから戦場カメラマンとして活動されています。戦場カメラマンになろうと思ったきっかけを教えてください。渡部 大学1年の一般教養で生物学の講義を受けたときに、先生からアフリカのジャングルで暮らす狩猟民族「ムブティ族」についての話を聞きました。現代社会で狩猟しながら暮らしている民族が、まだ存在しているというのが衝撃で。ぜひ会って直接話を聞いてみたいと格安航空券を購入し、アフリカのザイール(現在のコンゴ民主共和国)に向かいました。――行動力があるんですね。渡部 子どものころから知らない土地に行って、見たことがない光景を見るのが好きでした。いまだにそうです。浪人時代は「青春18きっぷ」を買って、バックパッカーとして国内を旅していました。ザイールにもその感覚で、ほぼ何も知らない状態で行ったのです。 しかし1993年当時はルワンダ内戦が勃発し、ザイールも巻き込んで拡大していた時期。ジャングルに向かう道中、少年兵たちが村を襲撃したり、子どもたちを拘束したりする状況を目の当たりにしたのです。血だらけになって泣いている子どもたちを前に、何もできなかった。 帰国して自分にできることは何かと考えたときに、子どものころから好きだったカメラで戦地の様子を撮影すれば、たくさんの人に現状を知ってもらうきっかけになるのではないかと思ったのです。戦場カメラマンになる覚悟を決めました。――ご家族に「戦場カメラマンになる」と告げたときの反応はどうでしたか?渡部 大反対です。当時はネット環境もなく、万が一のことがあったらどうするんだと。そこで約束をしたんです。どんな地域に行ったとしても、必ず毎日何度も家族に電話をかけること、手紙を書くこと。この約束をこれまでずっと守ってきて、4 日常になっています。今朝も実家(静岡県富士市)で一人暮らしをする父と、電話で話をしてきました。戦争で犠牲になるのはいつも子どもたち。それを伝えるために現地に行き、シャッターを切る。知らない土地に行って、見たことのない光景を見るのが好きです!故郷の富士市観光親善大使として富士山に登頂したときのワンショット2024.03 – LABO■
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