Labo_542
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――大学生のときに戦場カメラマンになられてから、現地に足を運び続けています。危険な目に遭ったことはありませんか?渡部 基本的には無謀な取材はしません。大事なことは取材の組み立て方、取材許可証の取り方、国境の越え方、引く勇気。現地ガイドさんとのつながりによって危機管理は徹底してきました。ただ20代から30代前半にかけては、少しでも激しい写真を撮りたいと兵士よりも前に飛び出すようなこともありました。その結果ケガをしたり、カメラを壊されたり、フィルムを盗られたりして取材が成立せず、帰国後何も発表できないこともありました。――戦場カメラマンとしての意識が変わるようなきっかけがあったのでしょうか。渡部 2003年に取材したイラク戦争です。サダム・フセイン大統領の拘束事件も最前線で取材しました。歴史が変わる瞬間に立ち合って、戦場カメラマンとしてのうねりが爆発した取材でした。そこで気づかされたのが、危機管理の大切さであり、現地ガイドさんや通訳さんなど取材チームを固めることの重要性です。 1人では絶対に取材はできません。すぐに捕まり、人質交渉に利用されます。特に家庭を築いてからは、自分の中の優先順位は1番目が安全、2番目が取材というのが完全に固まりました。――ガイドさんはいつも同じ方なのですか?渡部 はい。イラクのガイドさんは僕と同世代で、友人であり、家族のような存在でもあります。出会った当時はお互いに独身でしたが、それぞれ結婚して子どもができて。イラクの自宅には何日間も泊まらせてもらいましたし、日本に遊びに来てくれたこともあります。――信頼関係があるのですね。渡部 どのルートから行けば安全か、どこまで進んだら危険なのか。判断はガイドさんに任せています。ガイドさんを通して、イラクの人たちの生活の中に入っていけた経験も大きいものでした。驚いたのは、戦争の最前線にありながら、家族の日常も繰り返されているということです。家族で食事をして、子どもは学校に行き、夜は川の字になって寝る。その中で親が子どもに示す温かい気持ちや深い愛情。どの戦地でもそれは同じですし、家族とのつながりは日本人と変わりません。銃撃やテロの写真も撮りますが、戦地の日常も撮るようになりました。赤ちゃんのミルクに使うお湯はどうしているのか、オムツはあるのか、学校に教科書はあるのか。日本人にとっても身近な日常が繰り返されているからこそ、現地の問題にも気づきやすくなると思うのです。――戦場カメラマンになられてから現在に至るまで、毎年継続して戦地に行かれています。その原動力はどこからくるのですか?渡部 多くの戦地に出向いたなかで、どの戦争でも変わらなかったことは、犠牲になるのはいつも子どもたちだということです。大学生のときにザイールで出会った子どもたちとの出会いが戦場カメラマンとしての鉄の柱です。フリーランスなので取材経費は自分でケアしなければなりません。若いころは資金を調達するために、港で日の出前から夜中まで、バナナをコンテナ「戦争が続く限り、現地に足を運び、自分の目で確認してシャッターを切る」――、渡部さんが一番大事にしてきたことだ■LABO – 2024.03 5 ターニングポイントはイラク戦争歴史が変わる瞬間に立ち合う西アフリカのガーナの森で暮らす家族と

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