■LABO – 2025.03 5形かた稽古を重視し、苦手をつくらず、得意を磨く2度のオリンピック出場銅、銀メダルを獲得――その後、柔道の強豪校である日大藤沢高校に進学。女子部員は在籍していましたか?楢﨑 私が入学する前は、創部から5名ほどしかいなかったようです。私が入学した年にはすでに卒業して、またゼロに戻って、結局、女子部員は私と同級生として入部してきたもう一人のみでした。その後、妹も入部して私が3年生になったときは数名までになりましたが、稽古相手は男子部員に限られていました。――大会に出場する機会はありましたか?楢﨑 私が高校時代は、ちょうど女子柔道の大会が増えつつあるときで、2年生のときに世界ジュニアがスタートし、さらにインターハイや福岡で開催される金鷲旗という大会にも3人制の団体戦が設けられました。それまでの全国大会といえば、3月に開催される全国高校選手権(個人戦)のみ。女子柔道の環境が徐々に整えられていった時期といえるかもしれません。そして、1年生のときに3位に入賞したのをきっかけに、全日本の強化選手となり、世界ジュニア(2位)や福岡国際(3位)にも出場する機会を得ることができました。――自分事として、オリンピックも視野に入るようになってきたのでは?楢﨑 高校3年間で、国際大会や全日本体重別に出場し、ある程度の成績を残せて、私にもできるかもしれないという気持ちが、少しずつ現実的になっていった感じです。――現役時代の楢﨑選手には、類まれな“業師”という印象があるのですが……。楢﨑 父の指導方針もあって、日々の稽古では動いている相手に対して、瞬間的に懐に入り技を仕掛けていく練習を重点的に積み重ねていきました。ところが、静止した相手に同じ技を繰り返してかける基本の打ち込み練習は、いくらやってもうまく体さばきができない。むしろこちらのほうが簡単なはずなのに……。高校に入学した当初は、部活の男子の先輩に「お前、大丈夫か?」と心配されたくらいです(笑)。一方で、子どもの頃から柔道の形の練習はよくやっていました。形では同じ技を左右1回ずつかけるのですが、その影響もあって、右でも左でも同じようにかけられるようになっていました。左右バランスよく取り組んでいたことは、身体の発達面においてもよかったと思います。――苦手をつくらなかったということですね。楢﨑 はい。ただ高校入学後は得意技をつくり、さらにそれを磨いていかなければならないという方針で、左に組んで左にかけるというスタイルに一本化を図っていきました。でも、反対側も不得意ではないので、時々、実戦の場では左に組んで右にかける技も仕掛けたりしていました。――子どもの頃からの地道な基本の積み重ねと実戦に徹した取り組みが、“業師”の礎を築いていたわけですね。楢﨑 指導者の影響(私の場合は父)はやはり大きいと思います。とくに子どもの頃は、指導者の方針がそのまま心・技・体の中に醸成されていくものですからね。――指導者の役割はそれほど重要であるということですね。楢﨑 癖と同じで、一度身についたスタイルは、大人になってからなかなか直すことは難しいです。だからこそ、どういう指導者と出会うかで、その選手の人生は大きく左右されるといっても過言ではないと思います。私はとても恵まれていました。――アトランタオリンピック(1996年)に出場されたのは、筑波大学卒業後のきたのはいつ頃だったのでしょうか?楢﨑 バルセロナオリンピックが開催された年、私は大学2年生だったのですが、全日本体重別で3位に入ったことで、代表選手の付き人として現地に連れていってもらう幸運に恵まれました。間近で大一番に臨む選手の緊張感、それに対する心の整え方やウォーミングアップなど、すべてを見ることで、次は自分がこの大舞台に立つというスイッチが入ったかもしれません。――大学卒業後、大阪に本社のあるダイコ福岡国際でライバルのベルデシア選手(キューバ)と対戦し、下から引き込んで抑え込みを仕掛けている修士論文の提出と福岡国際が重なり大変だった時期。何とか優勝し、観客の声援に応えたアトランタオリンピックで休養日にダイコロの大山昭三先生、同級生の南條和恵(旧姓永井)さんと遊園地を訪れたシドニーオリンピックでは、前大会からさらに一歩前進して銀メダルを獲得23歳のとき。オリンピックが視野に入って
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