Labo_No.556
5/16

た。書き終えたときには不思議と迷いが消え、この病気と闘うしかないという強い決意に変わっていました。病名発表は思った以上の反響でした。千羽鶴や応援メッセージをたくさんいただき、こんなに多くの方々に支えられていたんだなと、すごく前向きな気持ちになりました。メッセージの中には、「私も脊髄梗塞で車椅子生活ですが、海外旅行も楽しんでますよ。弘道さんも頑張ってください」とか、「息子が脊髄梗塞ですけど、今、リハビリにすごく励んでいます」など、同じ病気と闘う方からの前向きなエールが届き、力づけられました。――同じ病気の方とは親近感が持て、成功例は励みになりましたね。佐藤脊髄梗塞は脳梗塞の100分の1と非常に発症確率が低い病気で論文も少なく、治療法もまだ確立されていません。リハビリは、入院して4日目に理学療法士さんらが病室に来て、筆で足をさすり感触を試すところからスタートしました。腰から下の感覚がまったくなかったのですから。今でも腰は温度を感じることができず、下半身の温痛感覚も鈍いので、入浴のときは必ず、バスタブの温度を手で確認しています。やがて足の指が少しずつ動き、膝が曲がるようになり、さらに足を少し上げられるようになりました。次にベッドサイドに座り、また寝るという訓練を繰り返しました。ベッドから車椅子に移動するのは、上半身が普通に使えていたので、わりと簡単――そして昨年、大変な経験をされました。あまりに突然で驚きましたが、何か予兆はあったのでしょうか。佐藤健康診断も毎年受け、定期的に胃カ5          で、平行棒の選手のように座席を掴みながメラや大腸検査もしてました。タバコは吸わないし、お酒も弱く浴びるほど飲むこともない自分がなぜという思いが強かったです。予兆といえば発症の前々日に背中が痛み、当日の朝は左足が少し痺れていたくらいです。――去年の6月2日、保育士の研修のために、鳥取市へ出張する日のことですね。佐藤朝、出張用のキャスターバッグを玄関に運ぶとき、左足が急に沈み込む感覚になり、バッグを持ったまま転びました。そのまま車を運転して羽田空港へ行き、荷物を預けたら一気に体調が悪くなり、吐き気や脂汗も出てきて、痛みもどんどん増し、さすがにおかしいと思いました。鳥取までは無理かなと思ったのですが、荷物はすでに預けたし、周りに迷惑もかかるので行けるなら行こうと……。機内でも痛みは消えず、やがて足は動かなくなり、腰周りが万力できつく絞めつけられる感じになって……。着陸後、立とうとしたら足に力が入らず、もう歩けませんでした。通路が狭く車椅子が入らないのら腕の力だけで前に行きました。――鳥取空港から車椅子で病院に緊急搬送されたのですね。佐藤日曜日でしたが、当直の先生が整形外科担当で。レントゲンを撮りましたが骨には異常がなく、たまたま脳神経科の先生もいらして、MRI検査をした結果、脊髄の異常がわかりました。おへその下は感覚がなく、下半身はもうダメだと思いました。そのまま入院してさらに検査、検査が続き、数日後に脊髄梗塞と診断されました。その病気を知らなかったので、即ネットで調べてみると、脊髄の血管が詰まり、一部が壊死して神経が壊れる病気で、現在はまだ治療法がない――。もう絶望的な気持ちになりました。――突然、出張先で下半身麻痺の難病と診断をされました。気持ちの切り替えはどのように?佐藤もう、死のうと思いました。自殺する人はこういう気持ちなんだと……。日曜日に入院後、金曜日にはレギュラーの生番組があり、最初は体調不良を理由に休みましたが、次の週も体調不良とは言えず、放送日の前日に病名を公表しました。パソコンでは何か薄っぺらな感じがしたので、素直な気持ちを手書きで綴りまし■LABO – 2025.05自らの気持ちを綴った文章を公表して病気と闘う決意ある朝突然に下半身麻痺の衝撃弘前大学大学院医学研究科にて博士号を取得。研究テーマは「親子のふれあい」大学の同級生だった久美子さんと結婚地元の新宿駅で「一日駅長」を務めた小学校の運動会で。1番にならないと気がすまない性格だったとか

元のページ  ../index.html#5

このブックを見る