Labo_No.562
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――4カ月かけて、悪性リンパ腫のステージ4という診断をされたときには、どのような心境でしたか?笠井 「俺、死ぬんだ」って思いました。PET検査を受けて、全身の画像を見せてもらったのですが、首から下は全体的にがんが広がっていて。主治医からは、今の時代は「ステージ4=手遅れ」ではない、特に血液のがんは抗がん剤が進歩していて効きやすいという説明をしていただきました。それでもやはり死は覚悟しました。30年以上勤めたフジテレビを56歳で辞めて、2カ月後のことだったのです。周囲からは「あと4年勤めれば退職金を満額もらえるのに」と言われましたが、より高く飛ぶに「死んではいけない」SNSのコメントで意識が変わった人を超えたのです。毎日見に来ている人は100万人くらいいました。コメントを読んでいくと「私も悪性リンパ腫です」「家族が悪性リンパ腫です」という方が増えてきて、「死んではいけない」と思いました。高みの見物ではなく、自分や家族の命を思いながら、私のインスタを見ている方たちがたくさんいることがわかったのです。そこからは、生きて元気に復活した姿を見せようというマインドに変わりました。――抗がん剤治療の様子もリアルに発信されていました。笠井 私の場合は連続5日間、120時間の抗がん剤治療を6回やりました。からだへの負担が大きかったため、倦怠感がつらかったですね。味覚障害も日々の食事の楽しみが奪われるので、きつかったです。――4カ月半の抗がん剤治療を終えて、完全寛解となり、その2カ月後にお仕事に復帰されています。ハードな治療を受けたのにもかかわらず、以前とあまり変わらない姿が印象的でした。笠井 テレビに復帰するためにはやせてはいけないと思って、入院中も無理やり食べていました。1食3~4時間かけて食べていたので、食べている途中で次の食事が運ばれてくるのです。看護師さんには食べ切るまでは下げないように頼んで、夜中に食べることもありました。食べたくないのに食べるというのは、きつかったですね。治療を始めたころは7~8キロ落ちてしまいましたが、退院するこは、あのタイミングが最後のチャンスだと6     思って……。思い切って高く飛ぼうとしたら、地面がないところに落ちていったという感じでした。――決まっていたお仕事もたくさんあったのではないでしょうか。笠井 ありがたいことに、半年先まで40くらいの講演会が決まっていましたが、すべてキャンセルしました。主治医からは、治療を始めるのですぐに入院するように言われたので。ただ、2週間後に『徹子の部屋』(テレビ朝日)の収録があったので、「2週間待ってほしい」とお願いしたのです。『徹子の部屋』はフリーになってどうしても出たい番組の1つでしたし、自分のバイオグラフィーの最後を『徹子の部屋』で締めくくるのは悪くないなと思って。もちろん先生は難色を示しましたが、何があっても自分の責任だからとお願いして、了承してもらいました。――入院後、情報番組『とくダネ!』で悪性リンパ腫を公表され、インスタやブログでも闘病の様子を毎日のように発信されていました。どのような思いからですか?笠井 まざまな情報を届けてきましたから、人が人生を終えていく貴重な記録を残すことが、自分の使命だと思いました。ところが予想外のことが起きて……。私のインスタのフォロワーは、開設以来フォロワー数が300人程度だったのですが、悪性リンパ腫を公表したら一気に3万「#病室 WiFi協議会 」ロビー活動にてメンバーと。コロナ禍での入院体験を機に、病室でWiFiを使用できるよう国にかけあった抗がん剤治療の副作用のひとつ、脱毛。眉毛まで抜けた悪性リンパ腫で入院中、妻・ますみ氏と(撮影=石川正勝)抗がん剤治療で強い副作用があり、長い倦怠感が続いた20年間生放送の『とくダネ!』でさ2025.11 – LABO ■

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